耕余塾跡

明治時代にあった私塾の跡地。神奈川県高座郡羽鳥村(のちの明治村で現在の藤沢市羽鳥)に、1872(明治5)年に創設された。

創設者は羽鳥村の名主である三觜八郎右衛門。姫路藩出身の儒学者、小笠原東陽を招聘して郷学校として「読書院」を、廃寺であった徳昌院の庫裏を校舎として利用し開設。
創設同年に学制が敷かれ、読書院は羽鳥学校(現在の藤沢市立明治小学校)に改称された。

改称と同時に生徒の多くは羽鳥学校へ移ったが、小笠原東陽はそのまま読書院を私塾として別で存続させた。

1878(明治11)年、入塾社が増加。新校舎を落成し、塾名を「耕余塾」と改める。同時に変則中学となる。

1887(明治20)年に小笠原東陽が没し、娘婿である松岡利紀が塾長に就任。慶應義塾の福沢諭吉の門下生を教員として迎え入れ、久保市三郎らが教鞭をとり、慶應義塾に倣って「耕余義塾」に改称した。

1896(明治29)年11月16日、耕余義塾卒業生の慶應義塾高等科第三等第一期への無試験編入の契約を締結した。

神奈川県屈指の中等教育機関であり、漢学、英語、数学、理科、西欧史、法制などを教え、寄宿制、小中学一貫教育を行う私塾として知られたが、1897(明治30)年9月8日に大風に見舞われ、全学舎が倒壊。その後再建はままならず、1900(明治33)年8月31日に閉塾した。

現在は跡地が残るのみだが、藤沢市の指定重要文化財となっている。

主な塾生として、内閣総理大臣を務めた吉田茂、衆議院議員の中島信行、商工大臣を務めた古河電気工業初代社長の中島久万吉、味の素創設者の鈴木三郎助、味の素第2代社長にして内閣顧問を務めた鈴木忠治、陸軍大将の山梨半造などがおり、数多くの人材を輩出した。