神奈川県小田原市にある戦国期から江戸期にかけての城。北条氏の本拠として有名だが、その前身は室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の県立小田原高等学校付近にある八幡山に築いた山城である。城の規模、築城年は不明だが、15世紀中頃ではないかと考えられている。
1495(明応4)年、伊豆国を支配していた伊勢平氏流伊勢盛時(後の北条早雲)が大森藤頼から奪い、大幅に拡張したとされるが、この時点で大森氏が依然として城主であったことを示す古文書もあり、実際に奪取したのは数年あとのことと考えられる。
伊勢盛時は奪取後も韮山城を根拠にしていたため、小田原城を拠点としたのは伊勢盛時の息子である伊勢氏綱(後の北条氏綱)が最初であるとされる。
以来、北条氏政、北条氏直の時代まで、戦国大名北条氏の5代に亘る居城として、また南関東における政治的中心地となった。
小田原城天守閣は、歴史上何度も改築・再建が行われており、北条氏滅亡後は徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保忠世が城主となった際には、小田原市街地を包摂するような巨大な城郭規模を縮小。
1703(元禄16)年に発生した元禄大地震によって倒壊したあと、1706(宝永3)年に再建され、その後1870(明治3)年の廃城まで威容を示した。
廃城に際して天守閣は破却され、天守台跡には1893(明治26)年に江戸初期の城主であった大久保忠世を御祭神とする大久保神社が建立されたが、皇族が避寒のために小田原への滞在が増えたことを受けて、1900(明治33)年に大久保家が土地を返却。宮内省所有の御用邸用地となり、1900年11月に総工費15万7000円(企業物価指数換算で現在の2億3393万円に相当)をかけて小田原御用邸が完成した。
しかしながら、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって、御用邸が倒壊。
以後、戦後までは復興することなくに石垣だけが残った。
現在の小田原城天守閣は、1960(昭和35)年に小田原市政20周年の記念事業として復元されたもので、三重一階の天守櫓に付櫓、渡櫓を付した複合式天守閣となっており、地上38.7mの鉄筋コンクリート造。総工費は8000万円。1706年再建の際に作られた模型や設計図を基にしているため、外観は当時のままに復元されている。
復元から50年以上が経過し、耐震補強が必要であることから2015年7月から2016年4月にかけて耐震補強工事、屋根及び外壁工事、空調設備の工事が行われ、それを機に展示のリニューアルも行われた。
ちなみに、小田原市では2006(平成18)年に天守閣の高さを基準とした高度規制を実施。小田原城天守閣の高さを超える建物の建築が制限されたことで、東海道新幹線の車窓からも小田原城天守閣を見ることができる。